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ゲーセンで勝手に泣いてろ

話題になっているようなので読んだ。


ゲーセンで出会った不思議な子の話(ブックマーク)

http://b.hatena.ne.jp/entry/blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4077578.html

(本文はリンク先から飛べます)



【結論1】


泣けなかった。
というか、感情移入の前にやっぱり「一杯のかけそば」的なものを感じた。
だからまともに読む気がなくなった。
非常によくある話。
ひょんなことから出会った恋人は実は死ぬ話。




【考察※かなりナナメってます】


ちっとブクマを読んでみたところ、ちらちらと散見された意見が

「ナントカで脳内変換したら泣けた」
「曲がいい感じで泣けた」

とまぁ泣けた泣けたの大合唱。
そんなに泣きたかったらワサビでも食べてろと(ry



そんなわけで批判的な意見もだいぶあるのですが、面白いのが「話自体」に言及しているわけでなく、「泣けると共感している人」を批判しているのが多いところ。



これはケータイ小説が流行した時から一歩論点が明確になったということだと思う。

ケータイ小説論はまず「文体が汚い」「内容が陳腐」とケータイ小説自体を貶す論がほとんどであった。
「共感する聴衆」という視点はその次で、ブームが消えたらケータイ小説論自体が一緒に消滅してしまった。



そしてまた持ち上がった「愚民論」。
「賢者は歴史で泣き、愚者は経験で泣く」とはよく言ったもので(違うか)。



実はこの「泣ける」というのは日常からの死の排除が絡んでいて普段から「人の死」というイベントを経験していないからより「他人の死」がスキャンダラスに感じられるという構造になっていてひどく現代的だなぁと感じていたわけ。

そして今回のゲーセン話。
「愚民論」を生み出しているのは何なんだろうと考えた結果、それこそSNSが愚民を浮き彫りにしているんじゃないかという論に至ったわけで。
ゲーセン話の内容に触れないで、聴衆サイドからこの件を考えてみようと思う。



それまでのケータイ小説はやはり個人のホームページやブログを中心に展開していて、その中で盛り上がっている部分が大きかった。
電車男ですら、匿名掲示板であるけれども「オリジナル」が存在してその周りで騒いでいた部分が大きい。

ところが今回の場合はブクマやツイートなどある意味「オリジナルの引用」から生まれる。
「オリジナルの引用」はつまり個人のアカウントの中に引きこまれて「個人の所有物」になる。

この点はケータイ小説時代から言及されていた面もあるけれども、今回の件でよりはっきり明らかになったと思う。
つまりゲーセン話のオリジナルについて論じるのではなく「僕はこの話を読んで悲しかったよ!」という面だけがアカウントに反映されてしまっているのだ。するとそのアカウントから読み取れるのは個人的な「泣ける」という感情だけ。これでは確かに「愚かしい」と嘆かれても仕方がないかもしれない。



今までもこのような類の話はたくさんあった。
しかし、テキストサイト時代はその面白さを説明する必要があった。
ケータイ小説はそもそも説明できる言葉を持たないものが多かったし、目につかなかった。



しかし、twitterは違う。
誰でも目にできるということは、その切り取られた感情が全部であると勘違いされやすい。
物語を勝手に脳内変換で読むことは間違っていない。
しかしそれを宣言することで、面白さが半減する人たちも一定数存在することを知らないものが多い。
(おそらく「脳内変換」という言葉を使うのは比較的若い子たちに多い気がする)
物語が面白かったら「何が面白かったのか」を明確に紹介するべきところが、自身の感情オンリーなのである。
何というか、「遊園地はどうだった?」と聞いて「楽しかった」としか答えられない幼児のようである。
「楽しかったよ、特に観覧車が面白かった。また行きたいな」とまで述べられて初めて感想になるのではないか。
もちろん「楽しかった」をないがしろにするつもりはないが、仮にもwebサービスで情報を発信するのですからもっと建設的な言葉を使えるようにしようよ。




【結論2】

結局twitterはバカ発見器だということがまた明らかになってしまったのかもしれない。
それよりも、この全体的な語彙の乏しさを嘆くほうが先なのかもしれない。



【結論おまけ】


俺は誰と喧嘩をしているんだろう?

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